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学術交流支援資金調査報告書

――開発と発展をめぐる、中国の戦略的調整を課題とするフィールドワーク調査

劉佳、呉旻霞、呉夢珊、王海寧調査班

2009年1月より作成

はじめに

  先学期我々の班が提出した学実交流支援調査報告書に基づき、今夏期休業期間を利用し、各自中国へ行き、インタビューを中心とするフィールドワークを実施した。計画書提出後、また指導教官と詳しく相談した上で、研究の方向性について、若干の修正を行った。今回のフィールドワークもその修正後の研究計画に基づき、実施されたものである。

  2008年のいわゆる「リーマン・ショック」に端を発する金融危機は、“BRICS”などともてはやされた新興工業諸国の「周縁」ないし「半周縁」(I.ウォーラーステイン)的地位を浮き彫りにした。特に中国は、「周縁」ないし「半周縁」としての地位を戦略的に選び取り、その代価として地域社会は水を含む資源の枯渇、環境問題、伝統的社会資本の荒廃、既存産業の荒廃からくる「社会主義国家人民」の被搾取無産階級化といった、いわば近代資本主義につきものの課題に直面することになった。その一方で、新自由主義的路線を推進、セフティネット不在のまま競争と格差が拡大していった。しかし、一時的には「成長」「発展」を人々に実感させたこの戦略も、金融危機によってはしごをはずされた形となり、先述の課題はますます中国社会に重くのしかかっている。今後戦略的調整が必要になるであろうことは、間違いない。

  以上の問題意識を明らかにするため、我々は経済発展、民主化活動及び外交政策の多角的な視点からアプローチを模索した。第一章では、建国から改革開放政策実施するまで中国の経済発展状況、とりわけ当時著しく成長を遂げた石油産業をめぐり、分析を行った。第二章では、改革開放以降、中国の「上からの民主」の典型とするメディアに対して、分析を行った。第三章では、近年注目されつつあるNPO活動に特化し、「下からの民主」の実態を探求する.第四章では、上記の国内要因を踏まえ、中国の外交政策全般を大きく影響を及ぼす対日関係を中心に、現状と問題を明らかにする。

 

第一章、政府指導の経済発展モデル――文革期の石油産業を中心に

  本研究では、中国工業化発展における石油工業に着目し、とりわけ1960年から1978年までの間に、石油工業がどのように発展したのか、そしてそれが中国の工業化戦略に影響を与えたとすれば、どのような要因と背景があったかを考察する。そのため、二回にわたり研究調査を行った。

(1)1回目の研究調査

一次資料:

「石油工業部党組関于東北遼松地区石油勘探状況和今後工作部署問題的報告」、石油工業部党組、1960年2月。

「堅持両論起家基本功、発展無産階級文化大革命的偉大勝利―大慶油田工作情況汇報」、 中国共産党大慶油田委員会、1974年9月。

「抓綱治国推動国民経済新躍進」、『人民日報』、1977年4月19日。

「把無産階級下専政下的継続革命進行到底」、『人民日報』、1977年5月1日。

二次資料:

馬洪、孫尚清主編『中国経済結構問題研究』、人民出版社、1981年。

当代中国的石油工業編集委員会『当代中国的石油工業』中国社会科学出版社、1988年。

余秋里著『余秋里回憶録』、解放軍出版社、1996年

付誠徳著『科学技術対石油工業的作用及発展対策』、石油工業出版社、1999年。

『中国党史人物伝』第64巻、中央文献出版社、2000年。

『中国党史人物伝』第67巻、中央文献出版社、2000年。

『中国党史人物伝』第69巻、中央文献出版社、2000年。

陳道阔著『余秋里与石油大会戦』、解放軍文芸出版社、2002年。

杜永林・張玉清著『工業学大慶的始末』、外文出版社、2004年。

宋連生著『工業学大慶始末』、湖北人民出版社、2005年。

李董章编『大庆油田之最』、黑龙江人民出版社、2006年。

李董章编『大庆油田大事记』、黑龙江人民出版社、2006年。

  • 調査活動期間

    2009年11月27日 ~2009年12月1日 

  • 調査の内容

      今回の調査の目的は、1960年から始まった大慶油田の開発が如何に実施され、またそれを指揮する石油部がどのように様々な物質的・技術的な困難を克服して成功に至ったのかを明らかにすることである。

    調査の結果、私は以下の一次・二次資料を収集することが出来た。

 以上の資料に基づき、私は上述した問題について、以下のような分析が出来た。

 大慶油田の開発をめぐり、最初に中央指導者の間に意見の対立が存在していた。しかし、軍事人脈に強い余秋里は毛沢東のみならず、中央軍委の支持さえ得られ、油田開発を着々と進行させた。

 そして、大慶油田においての油田生産技術の開発・取得は、大衆運動の展開によって完成されたものであった。その中で、「模範競争運動」の進行と「両参一改三結合」管理制度[1] の導入は最も重要な役割を果たした。それは技術開発のプロセスに参加するチャンスを一般労働者に開いたと同時に、幹部、専門家、技術者といった頭脳労働者を肉体労働に取り戻すことができた。それにより、労働者、幹部、技術者の技術研究・開発の積極性と創造性が発揮され、それぞれの知恵、経験、アイディアを最大限に引き出すことができた。その結果、油田開発は単なるハイスピードの追及だけではなく、十分な議論を重ねた科学的な開発方法を模索しながら、「量」「質」をともに高めて油田建設を進めていったのである。

 この意味で、50年代後半に行われた大躍進のような盲目的な大衆生産運動とは異なり、大慶油田開発は、技術開発・取得の基盤を有する大衆運動であるといえる。

 毛沢東は大慶の成功に注目し、大慶油田の開発方式を新たな経済発展戦略に応用しようとし、功績をあげた石油部部長余秋里、副部長李人俊を「計画参謀部」(「小計委」)[2] に据え、大慶開発方式による工業化建設を全国に普及させた。

 ただし、大慶開発方式は、全国のヒト、モノ、カネを動員し、大量の労働力と資本を集中的に投入するのを特徴とするものであり、一人当たりの生産効率の向上によるものではなかった[3]

  • 調査の成果

(2)2回目の研究調査

一次資料:

「全党全国工人階級動員起来為普及大慶式企業而奮闘」、『人民日報』1977年5月8日。

「中国共産党中央委員会主席国務院総理華国鋒同志在全国工業学大慶会議上的講話」、『人民日報』、1977年5月13日。

二次資料:

陳錦華著『国事憶述』、中共党史出版社、2005年。

劉国光編『中国十個五年計画研究報告』、人民出版社、2006年。

李董章編『大慶油田大事記』、黑龍江人民出版社、2006年。

于景森著『振荡中発展-新中国経済30年』、中央文献出版社、2006年。

雑誌、論文:

石文静「陳雲対十一届三中全会的貢献与啓示」、『党史研究与教学』、1998年第6期。

曹普「谷場与1978-1988年的中国対外開放」、『百年潮』、2001年第11期。

肖冬連「1979年経済調整的高層決策」、『党的建設』、2004年第12期。

肖冬連「経済調整在争論中推進-大転折事之四」、『党史博覧』、2006年第2期。

史義軍「1979年:国民経済在争論中実施調整」、『党史博覧』、2008年第7期。

  • 調査活動期間

     2009年12月27日 ~ 2010年1月2日 中国北京市国家図書館、中国石油大学図書館

  • 調査の内容

     今回の調査の目的は、石油の対外輸出に深くかかわっていた「洋躍進」運動の考察を通じて、70年代後半における中央指導者の石油工業に対する楽観的な認識の形成要因及び時代背景を解明することである。

    調査の成果として、以下のような資料を集めることが出来た。

 以上の資料に基づいた分析により、私は「洋躍進」運動の一部始終を考察することが出来た。その上、1970年代後半における中央指導者の石油工業に対する楽観的な認識の形成要因と時代背景を明らかにすることもできた。

 当時として、中央指導者は、文化大革命後の国内経済が強い回復の特性を帯びていることを認識せず、成長を示す数値の上昇のみに注目した。その結果、国内経済情勢が過大評価され、経済構造バランスと借款返済能力を無視した大規模なプラント導入が行われた。

 そして、その戦略的重点と核心は、120項目のプロジェクトを代表した大型重工業建設である以上、それは実質上、毛沢東時代の重工業優先戦略とほぼ同じように、石油、石炭、鉄鋼、化工などの工業化を通じて国民経済の現代化を推進しようするものであった。それゆえに、こうした戦略の実行は、必然的に農業と軽工業を再び排斥し、国民経済構造のアンバランス化をさらに加速させ、結局「洋躍進」運動自らの崩壊をもたらしたのである。

 当時として、余秋里、李人俊、康世恩など元石油部出身の人たちは党内経済分野の要職につき、経済指導部門の権力を握り、「洋躍進」運動の計画・実施に深くかかわってきた。彼らは石油工業に対する楽観的な認識は、まさに「洋躍進」急進思想の一種の現れであり、また一つの必然的な結果であった。石油が外貨獲得の主要手段として大量に輸出されたのは、それによってより多くのプラントを導入できると思われたからである。この意味で、こうした楽観的な認識の形成には、実際その社会的・歴史的な必然性が存在していたのである。

 また、「洋躍進」運動の発動者として批判を浴びていた当時党主席である華国鋒以外に、鄧小平、李先念、叶剣英、聂栄臻、余秋里、康世恩、谷牧など多くの中央最高指導者にも急進な意識が存在しており、彼らは「洋躍進」の形成と実施に深くかかわっていた。さらにいうならば、今日の公式見解とは違い、「洋躍進」運動は決して華国鋒一人の責任ではなく、党内指導者集団の産物であった。

 そして、「洋躍進」運動に対する考察からわかるように、改革開放政策の制定・実施は、1978年12月の第十一次三中全会からスタートしたものではなく、文革終結以後の1977年からすでに動きはじめていたのである。

  • 調査の成果

 

第二章、「上からの民主」――政治とメディア

  中国の民主化過程の中で、新聞メディアは如何なる役割を果たしたのか明らかにするため、本研究はこれまでメインに扱われていなかった地方紙を対象として、インタビュー調査を行った。

(1)新聞社への訪問

南方報業伝媒集団(南方新聞メディアグループ)、南方都市報社

(2)メディア関係者に対するインタビュー

南方報業伝媒集団・副総経理A(南方新聞メディアグループ・副社長A氏)

南方都市報社弁公室主任B(南方都市報社・管理本部・部長B氏)

南方都市報社・評論部・主任C(南方都市報社・評論部・部長C氏)

南方都市報社・東莞记者站・記者D(南方都市報社・東莞支局・記者D氏)

  • 調査活動期間

    2010年1月7日~1月24日 中国広東省(広州、東莞)

  • 調査の内容

    1. 資料収集

      ①内部資料(一部)

      『南方都市報組織結構図』(『南方都市報社組織図』)

      『南方都市報出報流程』(『南方都市報紙面製作のプロセス』)

      『南方都市報編委会・編集記者責任制管理条例』(『南方都市報編集委員会・編集記者責任制管理条例』

      『南方都市報編集記者定額管理評級弁法』(『南方都市報編集記者等級評定及び賞与の基準に関する実施方法』)

      『南方都市報版面編校錯誤処罰規定』(『南方都市報紙面編集校正錯誤に対する処罰規定』)

      『八年』(南方都市報創刊8周年の記念著作)

      ②出版物(省略)

      ③新聞原本

 中国における政治・メディア関係については、これまでの研究は主にメディア政策の変容の歴史を重点に論じ、政治がメディアをコントロールしているというのは通説になっている。しかし、政治とメディアの関係を論じるならば、メディア政策の変容だけでなく、メディアの変容の実態も把握しなければならない。そのため、今回は新聞メディアが最も発展している広東省に行って、発行部数が全国トップクラスでかつ「真実を大胆に報道する」新聞として知られている南方都市報の本社及びその親会社である南方新聞メディアグループを重点にフィールド調査を実施した。

調査を実施する際に、紙面内容、組織、組織で働いている人という3つの要素に注目していた。

  • 調査の成果

    1. 紙面内容(政府の「宣伝紙」なのか。)

       主要ニュース・地方雑誌(広州で販売される場合は広州ニュース)・経済雑誌・文化娯楽雑誌・都市生活雑誌という五つのグループに分けられている100面近くの分厚い新聞である。中に、全面カラーの広告は普通に掲載される派手ぶりで、非常に商業的だと言わざるを得ない。五つのグループの中で、最も厳粛のは主要ニュースグループである。このグループは更に案内面、社論面、ホームページ面、重要ニュース面、地方重要ニュース面、政治政策動向面、国内ニュース面、国際ニュース面などの面に分けられている。従来の党機関紙で最も重視される政治政策の動向に関する報道は100面の中でわずか1面に過ぎず、しかも政治・政策の動向は市民にどのような影響を与えるかを解釈するものほとんどである。それと対照的に、新聞の最も重要な位置に置いているのは自社の社論や、ホームページで議論されて話題などである。そこには民主主義国家のように政府の政策を批判する社論もたくさん掲載されている。

      紙面内容から、南方都市報は政府の「宣伝紙」ではなく、商業化、同時にメディアとしての中立姿勢を重視する新聞だということが分かる。

    2. 組織(事業単位[政府機関の一環としての非営利法人]なのか。)

       南方新聞メディアグループは1998年に成立され、2005年7月にグループ名を「南方日報新聞グループ」から「南方新聞メディアグループ」と変更し、同時に「南方新聞メディアグループ会社」という省管轄の国有企業を設立した。これまでのグループは「事業単位でありながら企業化管理」のスタンスを取ってきた。しかし、急速に利益を伸びるにつれ、「事業単位」という性質は益々弊害となってくる。2002年から始まる国の文化体制改革のチャンスを掴み、取材・編集などのイデオロギーとしての性質の強い部分を「事業単位」のままにし、広告・印刷など企業としての性質の強い部分を「事業単位」から分離させて企業化したのである。「取材と編集というメディアとして大事な部分は企業化していなくて、党と政府に強く握られているんじゃないですか」という疑問に対して、グループの副社長Aさんはこう語っていました。「形としてはそうだ。だけど実際は取材と編集も企業から給料をもらっているから、企業の株主の意思を反映しなければならない。報道の内容を読めば分かる。」そして、南方都市報社はグループ会社の子会社で、お金稼ぎの主役のため、よほど敏感な報道でないかぎり、親会社も口を挟まない。

      南方都市報は比較的自由な報道ができたのはその組織上の特徴と関連しているのではないかと考える。

    3. 組織で働いている人

       今回からのインタビューから副社長であれ、普通の記者であれ、南方都市報社で働いている人は報道自由の理想を共有している。しかし、政治の影響力は未だに強い中国では、メディアは完全に政府から独立することはできない。それにもかかわらず、現場にいるメディア関係者は政府と鬩ぎ合い、メディアとしての発言力を勝ち取り続けいている。

 

 

第三章、「下からの民主」――災害におけるNGOの役割

2009年8月5日から8月29日

  • 調査活動期間

 8月5日から8月12日に、四川大震災発生後、NGOの援助を受けた状況と、NGOに対する政府側の態度を把握するため、四川省徳陽市旌陽区統一戦線部の王部長と外事弁公室の劉主任にインタビューした。また、震災後、愛徳基金会(Amity Foundation)が四川省綿竹市広済鎮臥雲村において行っている具体的な活動及び収めた成果について、愛徳基金会5.12重建項目弁公室(5.12 Earthquake Rehabilitation Project Office)の責任者束さんと臥雲村の村民委員会の書記高さんにインタビューし、その成果に対する評価と地元の人々の満足度を確認するには、何人の村民の家に訪ねた。 

 8月19日に、江西省上饒市玉山県民政局の邱副局長にインタビューし、地元の社会団体及び民間組織の発展状況を了解した。

 8月21日から8月26日に、愛徳基金会の成長と発展、その財源、組織の運営とプログラム展開の仕方、及び政府側との協力関係について、江蘇省南京市に位置する愛徳基金会の本部を訪問し、広報と資源開拓部門(宣伝与資源拓展部)の包さんにインタビューして、基金会に属している愛徳慈幼院に見学した。

 8月27日から8月28日まで、河北省石家庄市で、中国国内初のカトリック教公益団体信徳公益の責任者韓主任にインタビューし、当団体によって行われたボランティア活動 に参加した感想と心理的な変化についてボランティア達と交流した。

 8月29日に、河北省刑台市寧晋県辺村で、草の根NGO「黎明之家」孤児院に訪問し、そこの発展状況と現在臨んでいる課題を把握した。

  • 調査の内容

 中国四川省、江西省、江蘇省、河北省にあるNGOおよび政府の関係部門の役人を訪ね、NGOの行為主体(プログラムの責任者やボランティア達等)、NGO活動の受益者(例えば、震災地の村人等)、NGO活動の監督・管理側(政府の関係部門)という三つの角度から、NGOの活動についてわりと全面的な考察を行った。

 愛徳基金会であろうと、進徳公益、黎明之家であろうと、玉山県の民間組織であろうと、地方政府との関係は「緊密」と言える。政府がNGOの活動の中で、確かに重要な役割を演じているが、その緊密関係は下記いくつかの異なるモデルに分けられる。

 

(筆者作成)

 愛徳基金会と政府との間、強い協力関係を維持している。援助活動の各段階においても政府側からの支持を得て、活動を順調に進めてきた。例えば、小規模な草の根NGOと比べると、愛徳基金会が臥雲村を援助対象にし、そこで活動を行う際に、四川省、綿竹市及び県等各レベルの統一戦線部の紹介を得たのである。震災地域の再建プログラムだけでなく、全国範囲内においてその他のプログラムでも、地方政府と緊密に協力しているという。確かに、筆者がフィールド調査で接触したNGOの中で、愛徳基金会の活動が最も効果的かつ専門的であり、その成長も割と順調である。愛徳基金会は官設団体ではなく、資金、人事、プログラムの方策決定等が行政機関から独立しているものの、享受できる政治的資源から見れば、草の根NGOとも明らかに異なっている。例えば、愛徳基金会の理事会に25名の役人の中で、全国或いは省、市レベルの(元)政治協商会議委員が12人、省庁レベル、司局 [4] レベルの幹部各1人がいる。Kuhnが指摘したように、「これらの組織が『自治』と自称したが、実際には国家政権の目標と一致している。マクロ的に見れば、彼らの出現が権力の集中に有利である。実質上は国家のために奉仕する団体である」。このようなモデルが中国を真の市民社会に導くかどうかについて、討議の余地があると考えられる。

 進徳公益は一部のプログラムで、政府と衝突したところがあるが、全体的には地元の政府と相互依存の関係にあると言える。例えば、エイズ患者へのケアという活動は、地方政府の失政とつながりやすいので、政府側に圧力をかけられている。また、進徳公益の宗教的色彩が濃いので、活動をうまく展開できない時もある。一方、もともと財政の行き詰まりで困った地方政府及び教育部門はある程度で進徳公益の奨学プログラムに頼って、地元の教育事業を支えている。しかし、進徳公益の活動には限界性がある。即ち、その財源から、サービスの提供者、受益者までほとんどはカトリック教徒であるので、社会における認知度がまだ低い。勿論、彼らも活動範囲や受益者の範囲を拡大しつつ、非カトリック教徒のボランティアも吸収している。社会貢献をしている過程の中で、団体自身の宗教色彩をどのように位置づけるのは、その発展に影響を及ぼす重要な問題となる。

 玉山県の民間組織は政府と癒着し、一枚岩の状態にあるとは言える。政府の「隠し金庫」という役割を果たしている「民間組織」もあれば、実質的に関係部門に所属している「民間組織」もある。真のボランタリーな団体がまだ芽生えていないかもしれない。また、各条例の中で、「非営利」、「民間組織」等語句の定義と解釈が曖昧なので、実際的に民間組織に対する管理の中で、民政局と他の業務管理部門としての政府機関の間に衝突も絶えずに起きている。これはやはり業務管理部門には権力が大き過ぎで、NGO設立の審査と批准からその活動に対する全般的指導まですべての管理権限を握っているのが原因であると筆者が考えている。他の一部の登録していないNGOも、政府の役人を後ろ盾にしているので、関係部門の指導を避け、管理制度を有名無実にさせる。

 以上のモデルとは違い、黎明之家は今まで正式的に登録できない。法定NGO以外の草の根NGOに分類されることができる。黎明之家への訪問から見れば、いくつかの問題点があると思う。一つはこういう草の根NGOの資金規模や専門性が問われる。勿論この二点がNGOの生存及び発展を大いに制限している。二つ目は、登録できない原因を尋ねると、業務管理の責任を負ってくれる政府部門がないということである。管理の責任を負えば、それだけの政治的リスクがあるからである。こういう現象が現れる原因として、二重管理体制に帰することができると考えられる。この二重管理体制は草の根NGOの登録基準を高める同時に、各政府部門に責任を回避する理由をつけた。

 まとめて言うと、これから、中国のNGOにさらなる発展させるためには、一つは関連管理条例の補完、及び法律の改善が求められる。もう一つは、現行の管理体制を変えること。2006年から、広東省が『職業協会・商業協会の役割を果たさせることに関する決定』と『広東省職業協会条例』(《关于发挥行业协会商会作用的决定》、《广东省行业协会条例》)を公表し、全国の先頭に立って、職業協会に対する管理について改革を行った。即ち、業務管理部門が各協会に対する行政管理を廃棄させ、単なる活動指導を行うようになった。改革の成果として、広東省のNGOは毎年10%から15%の成長率を保ちつつ、情報を公開したNGOが75%を占め、民弁非企業単位が展開した活動によってもたらした直接の社会・経済効果が3億元に達し、各協会で職務を兼任していた約1500名の政府側の役人に、半分は協会から退職した(広東省民間組織管理局局長方向文が全国民間組織管理ビデオ会議においての発言による)。こういう改革が引き続き進めているので、これから他の省市に普及し、NGOがより多くの独自性を獲得できるかどうかは期待されている。

  • 調査の成果

 

第四章、対日外交における政府内部の意見対立

 2005年決定された日本対中円借款終了に対する中国側の反応を政策過程分析の視角から分析を行い、胡錦濤政権時の外交政策決定の新たな影響要因を見出したいと試みる。そのため、今夏のフィールドワークでは、共産党シンクタンク部門、政策作成部にてインタビュー調査を行った。

(1)1回目の研究調査

●商務部訪問:

商務部とは:

 中華人民共和国商務部は、 中華人民共和国国務院 に属する行政部門であり、経済貿易を管轄する。 2003年に元 国家経済貿易委員会 の貿易部門と元 対外経済貿易合作部 と合併して成立した。北京の東長安街2号に本舎がある。日本の旧通商産業省(現 経済産業省)にあたる役所である。

インタビュー対象:商務部 陳寧処長

インタビュー内容:

 27日の朝、これまで中国の一番活動力で有名な商務部を訪ね、商務部の陳寧処長が対応してくださった。陳寧処長のご紹介を拝聴いたして、商務部の日常仕事の状況が分かった。とりわけ、日本対中ODAについて、円借款、技術支援、無償援助のそれぞれの中国側の対応省庁を紹介し、中国のこれまでの日本対中援助に対する態度を表明した。とりわけ、「対中ODAの資金調達は日本政府だけの力ではなく、一般国民の税金が大きな役割を果たしている。だから、中国政府として、日本の国民一人一人からのご協力を感謝している」と強調した。この話から、中国の政府レベルでは「国民税金」に対する認識が深まっている傾向が見える。この傾向があってはじめて、国内においても、政府が国民の意見を聞くようになり、政策作成のときに「民に役立つ」という意識もあるようになったのではないかと私が考える。

●中国共産党中央対外連絡部訪問

中国共産党中央対外連絡部とは:

 中国共産党中央対外連絡部(略称:中連部)は、中国共産党の党外交を推進する直属機構であり、1951年設立された。王家瑞が現在部長を担当している。

インタビュー対象:

中国共産党中央対外連絡部 李軍研究室主任

インタビュー内容

 中国の外交政策の一貫とする中国のOECD加盟政策について質問した。李主任の話によると、共産党の意見として、OECDは「金持ちのクラブ」であり、発展途上国の中国として、まだOECDに加盟する資格がないということである。たとえ、今後OECD加盟しようとしても、せめて十数年の努力が必要と主張している。

 また、日本対中円借款の再開に対しても、中連部は環境問題が日中両国にとって、とても重要な問題で、円借款の再開は検討すべき方法の一つだと意見を表明した。先ほどの商務部の陳寧処長の「望ましい」の口調との違いから、共産党が中国の絶対なる「領導機関」としての立場が感じられる。

●中共中央政策研究室:

中共中央政策研究室とは:

 中共中央政策研究室は中国共産党に直接付属し、共産党の主要シンクタンク組織として政策作成の面で大きな役割を果たしている。日常的に主に中央政治局のために政治理論を研究し、それに基づき政策を作り、更に政治文書の作成も担当する。

インタビュー対象:中共中央政策研究室 W氏(本人からのお願いで、名前を省略させる)

インタビュー内容:

 9月4日昼W氏と会食し、食事中主に円借款の終了を巡る中国側の議論、また終了後の日中関係についてお話を聞いた。

①円借款評価

 円借款がこれまで中国経済発展に対する貢献について、高く評価した。具体的に、日中友好のシンボルである円借款は中国の経済発展だけでなく、日中国民感情の改善に役割を果たした。円借款提供する前にすでに援助プロジェクトを決定し、いわゆる「目的明確な資金」を提供することである。この事前計画という性格を持つ円借款が発展途上国にとって、とても効率の高い資金といえよう。

 一方、円借款は中国だけではなく、日本にとっても大きな利益をもたらした。とりわけ、「要請主義」をもとに、日本の国益を反映した。また、中国の高い返還率は日本にとって、円借款を供与するに伴い発生したリスクを軽減し、日本にとって良性な資金循環となった。

②円借款終了後の日中関係

 W氏の分析によると、今後の日中関係は政治面で著しい成長が見られない一方、経済面での発展が大変期待できるのではなかろうかと言った。具体的に、これまで円借款は規模が大きいため、輸出入貿易と並び、日中経済関係発展の促進に大きな役割を果たした。2005年円借款が終了すると日本側が決定し、中国側が残念だと思いながら受け止めたが、今後の民主党政権期に再開することを期待している。

  • 調査活動期間

    2009年8月22日~2008年9月4日

  • 調査の内容

 今回のフィールドワークは共産党のシンクタンク二部門とODA実施一部門でインタビュー調査を行った。それぞれの利益の相違が存在するため、同じ日中関係とりわけ円借款に対して、違う意見を主張することが見える。そのため、今回のフィールドワークの成果も単なる日中関係についての中国側の見方を見出すだけではなく、中国の官僚組織の意見対立の傾向を発見することも挙げられると思う。

 基本的に中国の公式見解では円借款の終了が日本側の一方的な決断で、中国側はそれについてとても残念だと思い、再開することを期待している。ただその理由として、以下の違いが見えてくる。商務部を代表とする実施機関では財政の一環性を保つため、円借款が別の形で再開すべきだ主張する一方、中共中央政策弁公室と中連部は外交政策の面、とりわけ日中友好の象徴として継続すべきだと主張する。また、東シナ海の油田開発や、尖閣諸島の主権問題など外交問題を抱えている両国にとって、円借款の終了も極めて敏感な問題となり、そのせいか、両国の間でうまくコミュニケーションが取れなかったことは大変残念だった。このようなことが今後起こらないよう、今後の日中関係を考える際、両国はもっと慎重で、誠実な態度を取るべきだろうとも指摘した。

  • 調査の成果

(1)2回目の研究調査

 大阪大学の「集団安全保障機能」の集中講義に出席し、安全保障における日本の役割と国際の課題について、主にお話しを聞いた。今後の国際社会の安全を再建するため、日本はどんな役割を果すべきか、それにアジア地域では特に如何に各大国、とりわけ中国と協力すべきか、についてみんなで議論した。

 同志社大学の浅野亮先生にインタビューした。中国の軍事力について、お話を伺い、今後中国が国際社会の平和構築に如何なる役割を果すべきかについて、いろいろと議論した。

  • 調査活動期間

     2009年10月31日~2009年11月2日

  • 調査の内容

 大国として成長する中国は、今後世界でより大きな役割を果すことが期待されるだろう。その中で、如何に国際の基準にふさわしく成長していくかは今後の課題として検討する余地が大きい。

  • 調査の成果

(1)3回目の研究調査

中国社会科学院とは:

 中国社会科学院は中華人民共和国 の哲学及び社会科学研究の最高学術機構であり、総合的な研究センターで、中国政府の シンクタンクとして大きな影響力をもつ。

インタビュー対象:社会科学院 G氏(本人からのお願いで、名前を省略させる)

インタビュー内容:

 Gさんは主に対中円借款における中国国内の意見対立と円借款終了後の日中関係の発展方向について紹介してくださった。

①円借款に対する国内の意見対立

 実際中国政府内部での考え方は必ずしも公式見解その通りではないとも同氏が指摘する。財政部、商務部など実際円借款の実施を担当する部門では、これまで使ってきた円借款がなくなったことに対して、とても残念だと思う一方、共産党のシンクタンク部門ではやはり慎重な態度をとるべきではなかろうかとも主張する。その理由は、円借款を代表とする資金面の援助はやはり数字データとして実際に残り、とても客観的で説得力のあるもので、中国に対する影響力も他の技術支援などより遥かに大きい。だから、今後中国はこのような間接的な影響を避けるため、資金援助を慎重に受けるべきだと主張する。

②円借款終了以降の日中関係

 円借款の終了は日中関係に大きな影響をもたらさなかった。ただ、両国は円借款終了のプロセスの中で、これまでの想定してきた日米中関係が大いに変化し、それは円借款終了後の両国関係の構築に大きな影響を与えた。それは具体例として、民主党政権にまた提起された「東アジア共同体」構築のことである。なぜかというと、日本は東アジア共同体を積極的に提起することで、アメリカを警告のシングルを出し、牽制しようと思う。一方、中国は日中関係が緩和している現在を利用し、東アジア共同体の構築の中で東南アジアと関係改善を図り、今後アジア地域でリーダシップをとることを準備する。この両国の考慮に基づき、近い将来日中関係は大きな進展を遂げないが、悪化する心配もおそらくないのではなかろうか。

  • 調査活動期間

    2009年11月22日~2008年11月28日

  • 調査の内容

     第二回のフィールドワークは中国の軍事力について、色々勉強した。今後中国の外交政策の一環とする軍事外交がとても重要な役割を果すだろう。とりわけ隣国日本と如何に協力し、行動すべきかとても重要だと思う。今回のフィールドワークを通して、台頭する中国は今後「和諧社会」を目指すため、平和構築にどんどん活躍する一方、アジア地域ではできるだけパワーバランスを調整するため、限定的な抑制を行うだろう、と結論をつけた。

 第三回のフィールドワークは主に中国の学術界の方々をメインにインタビュー調査を行った。前回の実務者のインタビューと比べ、今回は主にそのような結論が出された理由と背景について、詳しく話を聞くことができた。これはとても重要だと思う。

 具体的にまとめると、まず、日中関係を観察する際、アメリカの役割を無視できない。そして、円借款の終了は日中関係の今後の発展に大きな影響を起こらない。一方、そのプロセスの中で日中の考え方の変化が今後のそれぞれの外交理念に大きく影響を及ぼすことが否定できない。

  • 調査の成果

 

 

 

[1] 「両参一改三結合」(「二つの参加、一つの改革、三つの結合」、以下「三結合」と省略)とは、幹部が現場労働に参加し、労働者が企業経営に参加すること(両参)、不合理な規則や制度を積極的に改革すること(一改)、幹部・技術者・労働者が一緒に現場で働くこと(三結合)である。より具体的には、国家石油工業部の指揮の下で、北京石油科学研究院をはじめとする全国各地の石油技術者・研究者を組織し、石油工業部の幹部を派遣し、生産現場にいる労働者と一緒に現場で技術研究・開発を進めていく制度である。

[2] 小計画委員会の責務は国家計委の日常的計画管理活動に参加せず、国家計委の所在地である三里河から離れた中南海のなかで執務し、戦略問題に専念し、5ヵ年計画の方針と課題の策定に取り組むとされている。

[3] 呉暁林著『毛沢東時代の工業化戦略』、お茶の水書房、2002年、頁311、312。

[4] 国務院各部(日本の省クラス)の行政単位。

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